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社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です
 FILE No.409 2015.1.31

「 東洋の巨人 」

〜 ジャイアント馬場17回忌追悼記念 〜

2015年が始まったと思ったらこのブログの更新日はもう1月最後の日、あっという間に一年の十二分の一が終わってしまいました。
今月のブログは公約通り(笑)全てプロレスネタでしたが、1月31日と言えば絶対に忘れてはいけない、そう、この日は世界のジャイアント馬場さんの命日ですよ!

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 日本プロレス界の象徴だったジャイアント馬場さん

1999年(平成10年)1月31日午後4時4分、不世出の偉大なプロレスラー、ジャイアント馬場さんは61年の波乱の生涯を終えました。
上行結腸ガンから転移した肝ガンが原因で肝不全となった事が直接の死因です。
翌2月1日、夜7時から会見が行われ馬場さん死去のニュースは日本列島を駆け巡りました。因みに発表が丸一日遅れたのは当初、元子夫人の意志であえて外部に発表しない方針が取られたからだそうです。
私が悲報を聞いたのはその日の夜9時半を過ぎた頃でした。
大学時代の友人から電話(当時はまだ携帯電話が普及していなかったので固定電話)があり、「NHKのニュースでジャンボ鶴田(故人)、三沢光晴(故人)、百田光雄の三人の記者会見が流れていた。」と言うのです。
但しその友人もたまたまチャンネルを合わせた時がちょうど会見の映像が切れるところだったので、内容はわからないという事でした。
前年の12月から馬場さんが体調不良で長期入院、新春のシリーズを全休していたので(もしや!?)と悪い予感がして慌ててテレビのスイッチを入れたものの、どのチャンネルも通常の番組やCMが流れるばかり…今なら何でもスマホで瞬時に調べられるのですが、その時はただ虚しくチャンネルを変え続けるしかありませんでした。
もっとも私は不安感は募るものの、それでも半信半疑の心境でした。
これまでの報道では腸閉塞で手術をしたものの術後の経過は良好、もうすぐ復帰に向けてトレーニングを再開するらしいと言う事だったからです。
(世界のジャイアント馬場が死ぬはずがない!)…しかし全日本プロレスの三首脳が会見をやっていて、しかもそれがNHKに流れたと言うのはやはり只事ではありません。
とにかく情報が欲しい! 時刻はまもなく10時、「ニュースステーション」(現・報道ステーション)が始まれば何かわかるだろうとチャンネルをテレビ朝日に合わせ待っていると、9時54分頃この後の番組予告で突如、馬場さんの写真と訃報を伝えるテロップが流れたのです!!

前年(98年)12月、馬場さんは風邪を理由に2日の長野・松本大会と3日の静岡大会を欠場していました。
この時は2日休んだだけで4日の千葉大会から戦列に復帰、シリーズ最終戦となる5日の日本武道館大会にもいつも通り6人タッグマッチに出場したので誰もがそんなに大した事はなかったんだと安心していました。しかし結果としてこの日の試合が馬場さんの生涯のラストマッチとなってしまったのです。
シリーズが終わり7日に受けた精密検査で前述の通り上行結腸ガンが肝臓に転移している事がわかり緊急入院、この時マスコミには癒着性腸閉塞と発表されたので命に別条はないと一安心したのですが、まさか馬場さんがガンに侵されていたなんて…!!
翌年1月8日手術を受けたものの27日から容態が悪化、29日には医師から意識の回復は絶望的と元子夫人に伝えられたそうです。

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 馬場さんの遺影を抱く
元子夫人

生命維持装置が外され「あと2時間の命」と宣告された段階から実に28時間も戦い続けた馬場さんでしたが、リングの王者もとうとう力尽き還らぬ人となったのでした…。
前年、猪木さんが引退試合を行った日が4月4日だったので、馬場さんが亡くなったのが4時4分と聞いた時は二重の驚きでした。永遠のライバル同士は最後まで戦っていたという事でしょうか…。

逆上る事36年、1963年(昭和38年)12月15日、そう、日本プロレス界の父と言われた力道山の命日です。馬場さんの死はそれ以来となるプロレス界にとって40年に一度の衝撃的大事件でした。
力道山が不慮の死を遂げた時、大げさでなく殆どのプロレスラーや関係者が別の職を探そうと本気で考えたそうです。何しろこの頃はプロレス=力道山、力道山なくしてプロレスが存続するとはとうてい考えられない時代だったからです。
プロレスの存続は絶望的、世間の誰もがそう思ったものの関係各位の努力でスポンサーが今後も変わらぬ支援を約束、テレビ局も放送を継続してくれる事となりかろうじて最悪事態だけは回避する事ができました。
しかしファンが判官びいきで応援してくれるのはしばらくの間だけ、早急に大エース力道山の穴を埋めるスターを発掘しなければ会場は閑古鳥が鳴きテレビの視聴率も見込めず、スポンサーやテレビ局に見放されてしまうのは火を見るより明らかでした。
そこで日本プロレス存続の危機に救世主として白羽の矢を立てられたのが、アメリカで修行していた馬場さんだったのです。

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 全米を震撼させたババ・
ザ・ジャイアント

馬場さんが元読売巨人軍の投手だった事はあまりにも有名なエピソードですが、怪我で投手生命を絶たれた馬場さんが第二の人生として背水の陣の覚悟で挑んだのがプロレスへの転向でした。
1960年9月30日、同期入門の猪木寛至と同日デビュー、翌61年夏に晴れて渡米武者修行に出発した馬場さんは、ロサンゼルスではショーヘイ・ビッグ・ババ、ニューヨークではババ・ザ・ジャイアントのリングネームでたちまち全米から引っ張りだこの大スターとなりました。
田吾作タイツに高下駄を履いて入場、塩を撒いて四股を踏むと言う当時の典型的な日本人選手のヒール(悪役)のスタイルながら2mの巨体と高い身体能力から繰り出されるスケールの大きな技、その迫力が全米のファンを魅了、「東洋の憎き大巨人」を一目見ようと会場には観客が殺到したのです。

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 渡米前に撮影された
プロモーション用の写真
(左はグレート東郷、右は後に日本プロレス社長と
なる芳の里)
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 グレート東郷(左)は破格の条件を提示して馬場さんの帰国阻止を画策

人気絶頂の馬場さんは渡米わずか2年半で師匠・力道山にさえ不可能だった当時の世界の三大王座(NWA、WWA、WWWF)に連続挑戦する快挙まで成し遂げ、文字通りの和製アメリカンドリームを実現しました。

この頃アメリカで馬場さんのマネージメントを一手に引き受けていたのが日系二世のグレート東郷(故人)でした。
この東郷が日本プロレスから帰国命令が出るより先に馬場さんにアメリカに残留する事を勧めたのです。
「リキ(力道山)が死んで日本のプロレスはもう終わりだ。だからおまえは日本に帰らずこのままアメリカに残れ。」
東郷が差し出した契約書には驚くべき条件が提示されていました。
・契約金は16万ドル
・契約期間は10年で年収は手取りで27万ドル
 保証する

当時の米マット界は年収10万ドルプレーヤーが超一流選手の証明と言われた時代でしたが、実にその3倍と言う超破格のオファーです。
この頃は1ドルが360円、と言う事は契約金5760万円、年収9720万円!!
しかも銭ゲバで有名な東郷の事、当然相当のピンハネをしたうえでこのギャランティ保証、いったい馬場さんはどれほどの「金のなる木」「レインメーカー」だったのでしょうか!?
1964年、大学の初任給が2万5千円の時代、手取り27万ドルは現在の貨幣価値に換算するとざっと5〜6億円にもなります。

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 「1964年のジャイアント
馬場」(双葉社)
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 日本初のメジャー・
リーガーだった馬場さん
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 生涯現役のまま天国の
リングに旅立った馬場さん
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 時にはこんな茶目っ気も(笑)

「かつてアメリカにはゴジラ松井秀喜、イチロー以上の価値を持つ日本人アスリートがいた。」(双葉社発行「1964年のジャイアント馬場」より)と言うのは決して過大表現ではなく、馬場さんこそ元祖・日本人メジャーリーガーだったのです。
27万ドルプレイヤーとして全米を渡り歩く事もできたわけですが、25歳の馬場さんは 誰に相談する事もなく、この破格の条件を断って日本に帰る道を選びました。
華々しく凱旋帰国した馬場さんは、本場アメリカ仕込みの力道山とは全く違うスタイルのプロレスを披露、勿論日本でも馬場人気が沸騰した事は言うまでもありません。
一時は存続の危機にさらされたプロレスはこうして完全に息を吹き返し、第二次黄金時代を築きあげて行ったのです。
歴史にIFはないものの、あの時馬場さんが金に目が眩んで帰国を拒否、アメリカに定着していたら果たして日本のプロレスはどうなっていたのでしょうか? 力道山亡き後はNo.2だった豊登(故人)が暫定エースを務めていましたが、華のない豊登では興行人気とテレビ視聴率を長期に維持できたかははなはだ疑問です。
馬場さんより5歳年下の猪木さんもこの時は海外武者修行前(帰国した馬場と入れ替わるように出発)の無名の若手レスラーでした。
客を呼び数字を稼ぐスーパースターが不在では、スポンサーやテレビ局の撤退は避けられず馬場さんが帰国しなければ日本からプロレスは消滅していた事でしょう。
馬場さんこそが日本のプロレスを救った男なのです。

日本プロレスの大エースとして活躍した馬場さんは38歳で引退してハワイで暮らすつもりでした。そしてハワイを拠点として数年間は全米を気ままにサーキットし、40を過ぎたら完全引退というライフプランを持っていたのです。
しかしプロレス界の複雑な事情がそんな馬場さんの夢を狂わせました。

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 駅のホームで馬場さんの
ポスターを発見!
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 リングに置かれた16文シューズ(99年5月2日東京ドーム、ジャイアント馬場「引退」記念試合より)

結局馬場さんは34歳で独立、全日本プロレスを旗揚げし、生涯現役のまま天国のリングに旅立ちました…。

そして今年は馬場さんの17回忌、年月の流れの早さを感じますがこのブログを書いている途中のある日、奇しくも通勤途中のとある駅でホームにある新聞の自動販売機の横にいきなり馬場さんのポスターを発見して驚きました。
51年前馬場さんが救ってくれたプロレスは時代を超えて受け継がれ今も多くの人を楽しませてくれています。
天国の馬場さんはその様子を満足げに眺めながら、プロレスラーとして一番楽しく充実していた青春時代、東洋の巨大な悪魔として全米をのし歩いた時間に思いを馳せているのではないでしょうか…。

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