三年連続で8月のそれも20日の週は、ジャイアント馬場&アントニオ猪木、宿命の対決シリーズです。(*79年の8・26夢のオールスター戦に因んでいます。)
あれは何年前だったでしょうか?
テレビのバラエティで有名人に様々な事を依頼し、その有名人がオファーを受けるか否かを解答者が当てるという番組が放送されていて、その中で「アントニオ猪木にジャイアント馬場のモノマネをしてもらう。」というのがありました。
サービス精神旺盛な猪木さんだから当然OKすると思って観ていたら事務所を通じた猪木さんの回答は「ライバルのモノマネはできない。」 未だ猪木さんの心には馬場さんへのライバル意識があるのだと、ある意味感動してしまいましたよ。
1979年8月26日の「夢のオールスター戦」の直後に二人の世紀の一戦は1億円のギャランティを条件として実現寸前まで行きながら流れてしまいました。
(FILE No.288,289「幻のBI対決」参照)
もう永遠に交わらないと思われた二人ですが、実はこの後もう一度だけ二人の試合が企画された事があったのです。
それも最初の決裂から18年も過ぎた1997年の話と言うから二重の驚きですが、この秘話を著書で紹介しているのは馬場と猪木の先輩で力道山時代のレスラー兼レフェリーであったユセフ・トルコ氏です。
この世紀の大一番を仕掛けようとしたのもトルコ氏自身で、企画書は以下のような内容になっていました。
1 両雄が引退する前に東京ドームで1997年11月に試合をする。
2 興行収益は日本赤十字社に寄付する。
3 主催はチャリティを目的としたこの大会のみのプロジェクトチームとし、
新日本プロレスと全日本プロレスは選手の派遣のみとする。
4 テレビ局は未定。
5 馬場−猪木戦のレフェリーはユセフ・トルコが務める。
トルコ氏がまず猪木に企画書を見せたところ猪木は「馬場さんがOKならいつでもやる。」と二つ返事でした。
次に馬場のところに企画書を持っていくと意外な事に馬場も「先輩、やります。」と返事をしたというのです。
但し馬場は「シングルマッチはきついからタッグマッチにしてくれ。」と提案してきたそうですが、このように条件をつけるからは本心で馬場もやろうとしていると自信を深めたトルコ氏は「レフェリーは自分がやるから何も心配するな。タッグでも5分でいいから二人で思いきり肌を合わせろ。絶対実現しよう。」と念押ししてその日は別れました。
しかしその後馬場とはなかなか連絡がつかず一ヶ月後にやっと会えたと思ったら「やっぱりできません。」とキャンセルされたのです。
「あれだけ約束したじゃないか。」と説得したけどダメだった。
馬場の返事を猪木に伝えたら笑っていたよ。馬場がノーと言ったらもう絶対不可能だと猪木も知っていたからそれ以上彼は何も言わなかったね(トルコ氏談)。
この本を読む限りでは馬場が一方的に逃げたようなニュアンスが強いのですが、本が発売された2001年当時はトルコ氏がかなり猪木に接近していた時期(因みに現在はまたも絶縁中とか…)なので多少割り引いた方が良いかもしれません。
もっともトルコ氏は「本心は馬場もやりたかったんだと思う。色々なしがらみでできなかったんだろう。」と馬場にも配慮して書いています。
結局は馬場、猪木、トルコ氏の三人が話しただけで流れた東京ドームでの幻のBI対決、企画書にはダミーのカードとして「ジャイアント馬場、渕正信 VS アントニオ猪木、藤原喜明」の記載がありました。
既に全盛期は遠い昔となっていた両雄の試合がもしこの時実現したとしても決して名勝負にはならなかったでしょうし夢は夢のまま、幻で終わって良かったという意見も多いでしょう。
でも昭和の時代、両雄の生き様と激しいライバル意識をリアルタイムで目撃した者としては例え5分、いや1分でも、実際に戦う二人を観たかったとの思いが残ります。
翌年の98年4月、猪木は遂に現役を引退、さらに翌99年1月に馬場さんは還らぬ人となりました…。
映画「ロッキー3」のラストシーン、ロッキーはかつてのライバル、アポロの願いを受け入れ誰もいない無人のジムのリングで挑戦を受けます。
このシーンを見る度、私はひょっとしたら馬場と猪木も観客もマスコミも誰もいない場所で戦っていたのではないか、そんな妄想にかられます。
会社やテレビ局との契約、様々なしがらみが夢の対決を阻むならそれらの全くない場所で本当にどちらが強いのか二人は密かに決着をつけていた…?
そんな空想を楽しんでいたら、本当に若手時代の二人がスパーリングをしている大変貴重なショットが発掘されました。
プロ野球のON砲に因んだニックネームのBI砲、遂に二人の対決を観る夢は叶わなかったものの昭和を代表するスーパースターと同じ時代に生きられた事を幸せに思います。
参考文献 「プロレスへの遺言状」ユセフ・トルコ著(河出書房新社) |
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